ぺそぎんのメモ帳

備忘録として作ってみました

多様性を支持する理由についての違和感

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みなさんは多様性という言葉を聞いてどう感じるだろうか。普通からはみ出してしまっている僕にとってはありがたい言葉だと感じる場面が多い。もちろん多様性を否定するためにこの文章を書いたわけでは無いし、多様性に対してマイナスのイメージを持つ人もそこまで多くは無いだろう。しかし"多様性を支持する理由"を考えてみてほしい。その理由は結構危険な考え方なのかもしれない。

 ・優生学とは

ちょっと脇道に逸れるが優生学という言葉をご存じだろうか。一言でまとめると悪い遺伝子を排除してより優秀な人間を生み出そうという考え方である。かつて大々的に行われていた人種差別政策は優生学とも関係が深い。もちろん特定の人種が劣っていると言いたいわけでも無いし、仮にそういう面があったとしても排除するための理由にはならない。また劣っているからといって排除すべきだとも思わない。多くの人が同様に感じるはずである。

 

多様性のメリット

多様性を支持する理由まで意識を向けた場合どんな理由が思い浮かんだだろうか。様々なものが想定できるが、よく見かけるものとしては環境の変化に適応しやすくするためというものである。例えば単一の遺伝子しか持たない集団の場合、ある特定の病気が流行れば一瞬で絶滅してしまうという脆さがある。しかし、様々な遺伝子が存在すれば中には病気への抵抗を持つ個体も出てくる。これが多様性のメリットの代表的なものである。病気に限らず社会情勢の変化などにも当てはまる部分は多い。もちろんこの理屈自体に問題があるわけでは無い。

 

多様性と優生学の関係とは?

しかしここで一つ考えてほしい。もし上記の立場を支持する場合、個性というものそれ自体はおまけで種を維持するためのコストだという考え方にも繋がりかねない。もちろんクローンではない以上優劣が付くのは仕方がない。しかし多様性=コストが広がってしまうとどうだろうか。豊かで長期的な視野を保てるうちは問題ないが、景気の悪化などで"コスト"が重いと感じた場合どうなるだろうか?おそらくコスト削減のために個人を切り捨てるという選択がなされるだろう。これでは基準が変わっただけで優生学の思想と大差ない結果になってしまうのではないだろうか。

 

まとめ

考えすぎかもしれないし、うまく文章に出来てない部分も多かれ少なかれあるとは思う。ただここまでの理屈にほころびが無いのであれば"全体の為"というあり方はかなり脆いのではないかという考えが思いついてしまったのでまとめてみた。